Prototypes: 主張の原形

筆者の個人ブログに、シロイブックスの理念の元となる主張を書いた記事があります。その中から、現在でも重要だと思われる内容をいくつか引用します。

無視してはならないこと

大人たちに対する苦情として、以下のようなものがあった。私がまだ自分の言葉を持たなかった頃の話。

・あなた方は自分の言っていることが正しいと本気で思っているのか。
・本当にそのようなことがしたくてそうしているのか。
・本当はしたくないのなら、なぜそれを拒否しない? どうして闘わない?
・闘うに値するようなことが、あなたの中にはひとつもないのでしょうか。
・結局、あなたは何のために生きているんですか?

それから時間が経ち、同世代および自分自身に対して。

・若い頃のあなたが拒絶しようとしたものを考えたとき、今のあなた自身は、恥ずかしくないと思えるような姿をしていますか?

若い日の憤り、もしくは私が本を書く動機について (2024.2.12)」

「変わりたい」という気持ちについて

そう、あなたはあなた以外にはなれないし、なる必要もないのである。

あの人のようになりたい、という感情がある。あの人のように輝きたい、前向きでいたい、みんなから愛されたい、面白い人になりたい。人間にはよりよくなりたいという欲求がある。人と比較する習慣は自分を不幸にするのでよくない、といった指摘は間違っているわけではない。でも、全面的に正しいわけでもない。私たちはちゃんとしたい。もっとうまくやりたい。たまに落ち込んで、すべてを投げ出したくなるような気持ちで夜を過ごしたとしても、私たちは再び立ち上がる。赤ちゃんのままでいたいだなんて、誰が本気で思うだろうか?

人の世で生きることは苦難の道であり、歯を食いしばって努力すべきだと言う人がいる。知るか。人と違うあなたのことを、ああだこうだと指差す人たちがいる。本当にしょうもない。こうした外野から投げかけられるあれこれは、いずれも私たちにとって本物の動機とはなり得ない。私たちは自分がそうしたいから頑張るのであって、他人の言うことは何も関係ない。

自己肯定感とか、自分を信じようといった言葉も、言わんとしていることは間違いではない。ただ、それも結局は他人の言葉、他人から借りてきた概念であって、どこかピントを外しているように思える。

私にとって正しいものは私の中にしかないし、それはあなたにとってもそうだ。

よりよくなりたいという強い願いについて (2024.2.11)」

主観性、個人の重要性

客観的な言葉って、そこまで人の心を打たない気がする。

何かを分析して、もっともらしい理論を立てて、そうして出来上がった概念上の冷たい成果物に、私たちは何か意味を感じるだろうか。私たちは本当は、もっと血の通った言葉を聞きたいのではないかと思う。その人は本当は何を考えて、何を感じたのだろう。何に苦しんで、最後にどこに行き着いたのだろう。

批評を恐れて、うまく体裁を整えた言葉の中に、あなたが本当に言いたかったことは残っているのだろうか。

主観性こそが重要なんだ (2024.1.21)」

あなたが社会に向かって被る仮面、社会があなたに押し付けるレッテルと評価、そうしたものは本当にどうでもいいと思ってる。大切なことは、あなたがあなた自身の生をどう生きるかという点にある。

それ以外のことは、コンビニで電気料金を支払うようなものだ。必要ではあるれど、それだけのことでしかない。トイレットペーパーは大切。定期預金の残高は大切。履歴書に書ける経歴は大切。それはそうだ。何も間違ってない。でも、別の意味では全然大切じゃない。あなたが考えるべきことは、そんなことじゃない。

おまえ自身の人生を生きろ (2024.1.25)」