クリシュナムルティ、そのパンク性と宗教的思想

このテキストについて

このページに載せているのは、シロイブックスで刊行を予定している書籍「宗教はなぜ存在するのか」の執筆のきっかけとなった原稿です。

当初は筆者のブログでの公開を想定していて、クリシュナムルティという宗教思想家を紹介する記事として書き始めたものです。「だいたいこんなものかな」と思う程度まで書き上げたタイミングで、シロイブックスの立ち上げが本格化して、この原稿は未公開のままとなっていました。

その後、これから出版していく書籍の企画を考えていたとき、普通に抱かれる「どうして宗教のようなおかしなものがこの世で重要だということになっているのか」という疑問は、一冊の本として十分成立しうるテーマではないかとふと思いました。そこでこの未公開の原稿の存在を思い出したのですが、ブログ記事向けのテイストで書かれた話をそのまま書籍の内容として流用することはできません。そのため、本は本として一から執筆するとして、この未公開の原稿についてもこのページにて公開することにしました。

書籍「宗教はなぜ存在するのか」の出版はだいぶ先のことになるかと思います(なんせ書きたいと思っている本が多すぎます)。ひとまず、このページに載せた短いお話を楽しんでいただけたら幸いです。

未公開原稿:クリシュナムルティ、そのパンク性と宗教的思想

自分に忠実だった人間の話

インド出身の思想家で、ジッドゥ・クリシュナムルティという人がいます。「TIME」誌によって、ダライ・ラマ(おそらくダライ・ラマ14世を指す)やマザー・テレサと共に20世紀の5大聖人のひとりとして挙げられたと聞きましたが、一般的な知名度はそれほど高くないかもしれません。人間の心理と社会について、驚くほど鋭い洞察を持った人で、世界各地を回って行われた講演の内容が書籍として多く刊行されています。

クリシュナムルティが世に出た経緯は興味深いものです。19世紀にアメリカで起こった、神智学協会というちょっとオカルトがかった宗教団体があって、この人たちは「いつの日か世界教師が到来して、人類を救済に導く!」みたいなことを言っていました(ほんとかよ?)。この団体のリーダー的な人が見つけ出したのが、インドで生まれたクリシュナムルティという少年です。

少年時代の彼は、特に目立って優秀で勉強ができるといったタイプではなかったそうです。しかし、のちに見られる宗教的資質とカリスマ性に関してはずば抜けたものがあって、オカルト団体とはいえ裕福で影響力のある組織にクリシュナムルティが「発見」されたというのは、歴史的に見れば幸運だったと言えます。

成人した彼は、「星の教団」という彼自身を指導者とする団体を与えられます。西欧のキリスト教圏では、たくさん教会があったとしても根本をたどれば聖書とキリストに行き着くのですが、インドという国では少し事情が違います。さまざまな異なる思想と立場を持った団体とか個人的な指導者とかが無数にいて、「私こそが真理を会得した、私についてきなさい、私が教えよう」みたいなことを言っているわけです(ほんとにほんとかよ??)。そういう無数の宗教指導者の中で、クリシュナムルティは特に目立った存在だったようで、彼の信奉者はどんどん増えていきました。

クリシュナムルティという人がすごいのはここからです。そもそも、なぜ彼らは私に従うのか? どうして他人が真理を知っているなどと言えるのか? 人生が苦しいからといって宗教に向かうのなら、それは単なる現実からの逃避ではないか? 人間は誰にも従うことなく、自分の力で、何が本当に正しいのかということを見つけ出すべきではないのか? こうした疑問に対してクリシュナムルティが出した答えは劇的で、それは自らの宗教団体の解散でした。私に追従するな、私の言うことを信じるな、ということを彼は明言しました。

普通、たとえばキリストという人がどれほど優れた人間であったとしても、宗教というのは時代が経つにつれて、形骸化した単なる権威になっていきます。自らが存命中に自らの偶像を破壊したという点で、クリシュナムルティはかなり特異な存在であると言えます。

「裕福で安楽な立場を自分から捨てて、真理の探究に向かった」という点では、王族として生まれた釈迦の出家の物語が連想されます。実際、クリシュナムルティの思想と仏教(のちに上座部仏教や大乗仏教として思想的に展開した内容というよりは、釈迦=ゴータマ・シッダールタというひとりの実在の人物が元々持っていた考え方)には近い点があります。それは「宗教的な教義みたいなものを無闇に信じるのではなく、自分の力で人生だとか人間の心理についてきちんと考えようね」という姿勢です。

その思想

クリシュナムルティが語る内容は、特定の教義だとか理論体系といった形をとっていません。それは人間の心理や社会の性質に対する、問いかけと洞察の繰り返しでできています。心理学的な専門用語や、彼が作った宗教的な造語や独自の概念などはまったく使われません。ただ、洞察の内容が特殊なので、普通の単語が世の中で使われている意味とは異なる意味を含んでいることはあります。

例として「思考」を取り上げてみます。彼がよく言っていることは、「思考は記憶の反応であり、記憶は常に過去なので、思考は常に古いものである」ということです。これは何も特別な言葉を使っていませんが、かなり重要なことを言っています。

人は言葉や概念を使って、頭で何かを考えて、何か新しい発見ができるように思われますよね。しかし、よくよく考えてみると、頭の中で考えられることというのは、既に頭の中にある材料を使ったものでしかありません。彼は「思考の中には新しいものは何ひとつない」と言っていて、思考は人間が持つ問題に対して解決の光を与えるものではないとしています。思考というのは、あくまで事務仕事をするときや何か製品を設計するときに使われるべきものであって、人の心において重要な位置を占めるようにしてはならないと指摘しています。

思考は測定と比較に基づいています。自分は誰それよりも優れていない、美しくないといった感覚は比較によるもので、これは心に混乱を生み、現実に存在するそのままの自分や他人というものを正しく理解することを妨げます。また、思考は言葉と概念であり、言葉や概念は現実ではありません。それにも関わらず、ほとんどの人は言葉と概念のレベルで生きています。そして、過去である思考は、伝統と権威でもあり、それは人間の自由や、何が本当に正しいのかといった理解や探究を妨げる存在です。

これに対して、事実を正しく理解するために必要なのは、思考という過去に影響された解釈ではなく、今現にあるものの観察だと指摘されています。ただし、ここでどういう言葉を使うかはまったく重要ではありません。観察は、分析的というよりは直感的、部分的というよりは全体的な把握のことだと表現できると思いますが、このように表現してみても芯を外しているような印象を受けます。このような説明自体が言葉と思考の領域にあって、「歪みなく適切に働いている心とはどういうものか」ということを記述できるものではないからです。

一例として彼の使う「思考」という言葉を取り上げてみましたが、これを単に理論として「なるほど」もしくは「それはおかしい」と言うことには意味がありません。彼が伝えようとしているのは抽象的・概念的な理論の正しさではなく、あなた自身の心は現実にどうなっているのかという点だからです。そのような重要な探究へと向かう姿勢を人々の間に引き起こすために、彼は数十年にも渡って世界各地で講演を行ってきたのですが、その意義を受け取ることは、たぶん今ここで私が書いているような短い紹介記事だけでは難しいでしょう。

講演などの形で、クリシュナムルティが残した書籍の数は膨大です。そこで述べられるテーマは一貫しており、それは「他人に付き従うな、自分自身の力で探究せよ」という点です。同じテーマでこれだけの数の本を残したにも関わらず、内容に冗長な繰り返しがなく、何度読んでも新たな気づきがあるという点には驚かされます。人間の心理と生き方に関する領域で、これだけ重要な仕事をした人物を、私は他に知りません。

批判

ちなみに、彼の論理展開を批判することは可能です。彼の話には「Aのときだけ、Bが起こりえます」と説明したあとに「Bであれば、それはAなのです」といった表現がときどき見られていて、ここでは原因と結果や、部分と全体といった関係があまり意識されていません。この表現について言えば、AとBが因果関係にあるということでなく、あるひとつの状態をふたつの異なる視点から説明していると見るのが適切だと思います。また、彼の言う「なぜなら」という言葉も、理由や原因を説明するものとは少し違うニュアンスで使われているようです。そのため、こうした話の展開を見て「ただの同語反復なのでは?」と感じる人もいると思います。

そもそも彼の考え方自体、世の中にある現象を単純な因果関係の連鎖としてとらえていないような部分があるので、普通の「論理的」な考え方に慣れた人からすると、違和感があるのは仕方がない面もあると思います。まあ、これは肌に合うか合わないかで、私の目には全体として彼が論理的に筋の通っていないことを述べているようには映ってはいません。また、扱っているテーマも言語や論理を超えた限りないものといった場合が多いので、それが言葉と論理で正確に表現できないというのは、原理的に当然のことです。それが記述できないものなのだということは、彼自身も言っています。

クリシュナムルティは「人の言うことを無闇に受け入れるな、権威を信じるな、私自身の言うことも疑え」ということを繰り返し強調しています。この世界にあるものについては何でも自分で考えて、自分の力で理解するべきだということです。彼の目的はこの点の指摘にあって、自分自身の思想を「正しい理論体系」として構築することは意図されていません。

彼の立場からすれば、彼自身の思想への賛同や反発には、さほど意味がないのです。同意も不同意も、他人の言葉を権威として認めている点で同じです。人の意見に重要性を感じていなければ、さらには「自分の意見」に重要性を感じていなければ、他人と自分のそれが違うということにいちいち腹を立てたりはしないでしょう。同意とか不同意ということは問題ではありません。あなたがどう考えるかということが、何よりも重要だからです。

(原稿ここまで。2024年1月執筆、その後この場所で公開するために5月に加筆)

書籍リスト

これはおまけです。日本語で手に入るクリシュナムルティの書籍のうち、私が「内容・翻訳ともに特に優れている」と感じた本の一覧を載せておきます。

  • 子供たちとの対話(藤仲孝司訳、平河出版社):一冊目におすすめ。学校で子どもたちに向けて語られた内容で、非常にわかりやすい上に内容も濃い
  • 恐怖なしに生きる(有為エンジェル訳、平河出版社):テーマが絞られており、これも内容・翻訳ともにわかりやすい
  • 生と出会う(大野龍一訳、コスモス・ライブラリー):やや難しいと感じられる内容だが、彼の思想の核心に触れた部分が多い